「考える」の版画
奥山さんの作品では、主に作家の小さな日常の一場面から起因した、小さな思考が表されています。それは意見表明や主張ではなく、
むしろ「だから、どうした」と思われるかもしれないような、小さな疑問や思考の過程がイメージとなっています。
私たちは時によくわからないことを考え続けます。思春期にはそれがピークに達していたかもしれませんが、成長するにしたがって、
それらを手放す人が増えていきます。それは日々に忙殺されているからかもしれません。あるいは当たり前に疑問をもち、深く考え続けることは、
精神に強い負荷をかけるため、「考える」ことをあえて避け続けた結果、考えることを手放すことが習慣化したのかもしれません。
しかし平穏に抗い、日々の中で誰かが何かを考え続けたからこそ、文化芸術が花開いていったとも言えるでしょう。
生きている時代のリアリティは、世代によって異なりますが、奥山さんの作品では、ネット世代特有の視点と、どの世代にも共有するような普遍的な
視点とが混在しています。時に謎かけのように組み合わせられた人物と思いがけないモチーフの組み合わせは、場面に新鮮な驚きを与え、
その奇妙な組み合わせが寓話のように別の物語を暗示させます。
漫画のようなタッチで描かれるそれは、風刺画や戯画のような気安さをまとっています。一方、漫画のキャラクターが援用されることで、場面が中立化し、
一人一人の顔がどうだとか、それが本物らしいか否かということよりも、その場面におけるイメージとイメージの関係性が強調されます。
そのことから、これらの作品は、作家の思考を鑑賞者と共有しようとしているというよりは、むしろきっかけとして何かを「考える」時間を共有/提供しているようにも見えます。
作品における漫画的なイメージの引用は、版画というメディア(手段/手法)についての作家の関心と考察に基づいています。
作家は美術大学で版画を学びましたが、数ある芸術表現の中で、今、なぜ版画という手段を用いて、表現しようとしているのでしょうか。
あらゆる表現技法にはそれ特有の言語があります。油絵を描くのと版画で描くのでは、木彫をするのと木版を彫るのとでは、意識や構成言語あるいは創る身体の動きが全く異なります。
それは制作や表現に大きな影響を与え、そしてその選択が作家の表現を支えています。
奥山さんは複製技術として大量消費される印刷物(漫画)と、同じように複製可能であるけれど作品としてエディションで管理される版画の有り様の違いに関心を持っています。
ここでは、印刷されたシートを貼る作画法や構図法、描き文字といった漫画特有の技法を、版画の特有の技法に置き換えて画面が作られています。一見ペンで描かれたようなイメージは、
木版に彫り、刷ることで獲得されます。それは私たちが当たり前のこととして受容している事柄への揺さぶりの始まりであり、問いの投げかけであると同時に、
何が芸術かという近代以降繰り返されてきた議論に通ずる問いでもあると言えるのでしょう。
トーキョーアーツアンドスペース
プログラムディレクター 近藤由紀